エルフの日々

誰にも「約束」された場所があり・・そして誰もがそこを目指して一生懸命歩いてる
<< July 2019 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>

思想なき世界

 

思想なき世界 

 

誰もがこうなったらいいのにと考えるのに、現実の世界ではそうはならない。

それは、経済的な理由であったり、一部の強力な既得権益者たちの都合であったり、偉いと云われる人たちのプライドであったり、そんな理由が障壁になるのかもしれない。

若しくは、足元しか見えていないからかもしれないし、無知であったり偏った思考や幼さからかもしれない。

何れ、誰かの都合や声高に叫ばれる声に本来持たなければならない方向性や思考が育たず消されてしまうのなら、それは余りに無残である。

 

 

国道45号線を北上すると、大型トラックの往来が激しくなる。

あの日広域に破壊された堤防をさらに嵩上げして造っているのだ。

まるで城壁のように高いその構造物は、あの日襲来した大波に対する恐怖をそのまま映している。

インフラにどれ程予算が使われ、どれ程膨大なエネルギーが費やされているのか。国土を守り、人々をあの大波から守ろうとする思想。しかし、その堤防の背後に町は無く、ただ荒野が横たわっているだけである。

いったい何を守ろうとしているのだろうか。

沿岸で暮らす人々の糧を考えず、そこで生活する条件を考えず構築されていく構造物。

背後の荒野で雑草が風に吹かれる。

 

だから言ったじゃないか。

誰かの都合で決められた基準でいくら安全だと云っても、それは通用しない。

周辺の国々は、私たちが食べているこの地域の産品を買おうとはしない。

日に焼けたあの笑顔と生産者としての誇り。今は何処に行ってしまったのだろう。

ごまかして測定したその結果を風評被害と言い訳して開き直るその思想。

自分に都合のいい情報で商うのではなく、消費者の需要に応えてこその商いなのに。

東電からの補償は産品のブランド力を落とすだけである。

 

国も県も町も全力を尽くして建設した復興住宅。

風景にそぐわない近代的な鉄筋の建物群。

でも仮設住宅で暮らす人々は今も存在している。

家を失い、避難所で生活し、仮設で日々を過ごした人々。

力がある者からそのループから抜け出した。けれど今も残る人々に復興住宅の家賃は高すぎる。

誰のための何のための復興住宅なのだろう。復興とは人々の暮らしを言うのではなかったか。

同じ風景が若い人たちにも起こっている。

教育とは本来この国の次世代のために行われる行為ではないのか。

その次世代に卒業と同時に多額の債務を背負わせるその現実の先にあるもの。

何が大切なことなのか。教育という思想に全く合致しない利得の思想。

大人たちが子供たちから搾取するその思想に未来はあるのか。

 

際限もなく拡張していく同じデザインの街。

まるで誰かが同じ街のコピーを拡げている様な風景。

郊外の巨大スパーマーケット。駐車場の端から端まで歩くだけでいい運動になる。

売られている商品は何処でも皆同じ。同じ物流網から排出される大量の同一規格、同一商品。大量に飼育されている家畜宜しくのマーケット。

行き過ぎた資本主義というマザーボード上で繰り広げられる金融優先思想、利得主義と単なる不動産業思想の生活インフラ。

人の生活を何で計ろうとしているのだろう。

その虚飾された大規模マーケットの陰で、本来人々の生活や地域を支えて来た商店街が廃れている。

 

地域を定義しようとする時、市街地中心部とその周囲を同一には思考できない。

同じく、都市部と郡部を同義には思考できない。まして被災地と呼ばれる地域を理解しようとした時、

その地域に内在する課題を都市部と同義に定義できようか。

そこで暮らす人々の生活を考慮せず、机上で立案されるその場凌ぎの対策。

それはまるで無秩序に拡がっていくコピーされた記号の様な街並み。形成される箱に人々の生活は考慮されていない。

 

 

2011.311以前から社会には矛盾や問題はあった。しかしあれ以来その矛盾や問題は露出し、

隠しきれなくなっている。急激なシステム変更に人々は翻弄され、「それはおかしい」と感じながら「それは違う」とは言えなくなっている。

全体が下り坂を下っているから、どこか昇っている様な錯覚さえ起こしてしまう。

問題は犠牲が弱者だけに留まるのではなく、普通に暮らす人々にまで及ぶ出来事が起こり始めていることだ。

 

眼前に迫る大波を前に、無感覚にスマホ動画を撮る犠牲者と同じ運命が、今の社会にありはしないか。

 

 

ペデルぺスが安楽に過ごせるはずの水中を捨て、焼けるように熱く重さを強いられる陸上に進出したのは何故だろう。

言い換えれば、水中という環境から全く未知の環境に移行しなければならなかった彼らなりのパラダイムシフト。

2011.311が原因ではない。それは大きな出来事ではあったけれど、一つの起因に過ぎない。

随分と以前から、若しくは様々な要因を経て数十年かけて作られてきた流れだったのかもしれない。

我々の水中もまたパラダイムシフトの時に来ているのではないか。

 

そんな漠然とした、しかしある意味確信的に感じる変化に、現在の私たちが思考しなければならないこととは何だろう。

変化していく環境にどう適応しなければならないのだろう。

 

最初に創めることは、現状を理解しつつ、その変化に対応する概念の方向性を見い出すことではないのか。

古い概念に囚われることなく、誰かの都合で決められるのではなく、自ら新しい思想に気が付かなければならないのではないか。

 

美しい風景を隠す城壁のような思考ではない新しい風景が、そこにはあるはずだから。

 

2019.01.21 Monday 05:23 | comments(0) | trackbacks(0) | 

プロローグ〜ペデルぺス計画〜

プロローグ 〜ペデルぺス計画〜

 

 

 酒場の淀んだ空気とオールドジャズが心地いい。

重い科せを強いられて、動かなくなりつつある心と体から一瞬開放される。 少し疲れたのかもしれない。

煙草のけむりの向こうに、様々な風景が見える。

あらゆる局面でパラダイムシフトを迎えようとしているこの世界。漠然としたしかし確かに感じる不安。

あれから7年もたつのに。あれからずいぶんと歩いて来たのに。

確かな明日はそこにあるのか。次世代に責任を持って手わたせる何ものかを生み出せているのか。

その危機意識ですら薄らぐ時間の経過と距離。

私たちは未だ薄明りの世界を彷徨っている。

 

 

あの日をメモリアルにするには、未だ傷が癒えていない。

痛みは形を変えて存在するし、その最中に語られる言葉はどれも軽すぎる。

定かならざる明日は、意識の根底に不安を与え、身体に鞭を打つ。

抽象化された希望に意味はなく、具体的行動の中にしか光はない。

 

託すしかないのだ。 夢を託すしか手立てはない。

 

医療保険や介護保険がその一部しか使えなくなって久しい。 高額の自己負担に、本来必要な医療や介護は滞り、旧来の医療機関や介護保険事業所は破綻するものが少なくない。 激しすぎる人口動態に、社会は為す術なく、途方に暮れた。

一部の高額所得層だけが最先端医療の恩恵を受け、手厚いしかし出来合いの介護サービスを受けることができる。

まるで1世紀ほど昔に戻ってしまったような世界。

元々、人口の4割超の医療や介護を社会が引き受ける事など不可能だったのだ。

加えて、福島第一原発から放出された放射性物質の影響で、人々が健康を害したり、産業の滞りから地域の経済は大きく後退を余儀なくされている。 本来必要な医療や介護は、量的にも質的にも担保する保障を失っている。  

 

 家族が分断され、個としての生活が当たり前の時代。 既にここ数十年で、そんな生活様式を当然とした社会が眼前に拡がっていた。 人は病めば職を追われ、小さき家族の背に負われるしかない。

小さき家族はやはり社会性を失い、光を失くす。 家族・家庭の定義そのものを変えなければならない。失うものが大きすぎる。

 

共同で生活する彼らにとって、家庭は個であるが、生活は個ではない。

小さいけれど個を保障する代わりに、相互に役割を担う。
建物に囲まれた共有スペースでは、車椅子の老人が小さな子供達を視ている。
若い共働き夫婦が帰るまで、共有スペースで過ごす血縁のない老人と孫。
嘗て3世代4世代が暮らした大きな旧家の様相がそこにある。
今夜の晩御飯の担当は、今日が休日のお母さんで、同じ共有スペースで車椅子の子供を視ながら料理している。
ここに来て、夜勤に出るために子供たちを置いて出かけなければならないことなどなくなった。
老人も子供もなく、健常も障害もなく、共有される生活と役割。


朝になると、隣接する療養看護のスタッフがベットごと若しくは車椅子ごと皆を連れて行く。
夕方には迎えにくればいい。痛みなく、不安のない重度の病める人々。
夜中に何か起これば、皆が心配し、皆が最善を尽くしてくれる。
独りで最後を迎える残酷さから隔絶された安息の夜。


歩くための訓練ではなく、もう一度誰かの役に立つためにリハビリに励む人々。
PCを片手で操作できるよう工夫する作業療法士。
覚えた操作で、この共有生活の様子を外の世界に発信する。
賃金によらず、夫々が夫々の役割を持ち寄り、工夫して共同の生活を守る。
介護とは、実は与えられるものではなく、自己を含めた周囲の人々との関わりなのだと気がつく。


企業は、小さな共同生活を守るために何重にも連携を深める。
医薬品、安全な食品、生活物資。環境の維持とリスクへの備え。
小さきもの達を守る小さき組織の集合。
資本によらず、役割に応じた「結」の思想。
雇用を生み出すことを最大目標にし、人々に役割を作り出していく。
巨大で装飾されたものなど何も必要ない。
街は、1つ1つの小さき組織で埋められ、その小さき組織が連なって構成される。
多職種連携は、医療・介護の範疇を超え、今や生活を守る全ての職種が、あらゆる業態が多職種・多事行連携を織り成す。


個人も企業もその存在を許される。
不安なく、孤立することなく、病んでも老いても暖かな共同体の中で生活できる。
得体の知れない抑圧者や既得権益者の暴挙もそこにはない。
額に汗した者達が、安心して生きていける。光がさす。
そんな、そんな街になったらいいのに。
小さき生活者を、小さき者たちの共同を許す世界観。
生活を管理ではなく、主体性を持つ本来の活動に昇華できる環境。

                                  
私は夢見てしまう。

混沌としたこの荒涼とした震災後の世界に、そんな次の世界があることを。
私達が目指す次なる世界。そんな生活空間と環境を目指したいものである。

(2012年エルフの日々より)

 

 

 あの頃を想い出すと、大きな危機を乗り越えようと必死にあがいていた自分とチームの状況が蘇る。

この7年よく乗り切ってきたと思う。よく歩き続けてきた。

震災前のチームは、医療介護制度を鑑み、自分たちの理想の追求に邁進していた。

小さな力だった。小さなチームだった。でもそれはゆっくりとした歩みではあったが着実に進んでいたと信じたい。

けれど、あの時から若しくは復興という命題に向き合わなければならなくなった時から、その歩みは根底から発想を変えなければならない事に気付き始める。

震災後乗り切ったはずの危機はその形を変え、想像を超える速度で拡がっている。

それは私たちだけの危機ではなく、私たちが暮らすこの地域の危機であり、この国の危機である。

 

 ペデルぺスは、動物として初めて水中から陸上に進出した生き物だった。

水の中でしか生きられない生物が、環境の変化から必然的に陸上に上陸しなければならなかった。

必然からか、生き残るための条件からか、とにかく彼らはその過酷な手段を選択した。

その後の世界で覇者となっていく定めではあるけれど、水中から上陸したばかりのペデルぺスは、トカゲやカエルのように醜くそして鈍重だった。

水中よりも何倍も重い重力。自分の体重を支えるだけの筋力と四肢の獲得。

鰓から楽に酸素をとるのではなく、焼けるように熱い空気を肺で呼吸しなければならない。

それまでの安住の環境から生き残るために自ら過酷な環境に挑んだ生き物。

 

大きな変革期を迎えている私たちの環境もまた、これからを未来を考えれば劇的な思考の転換を迫られているのではないか。

力なく、小さき私たちがその未来に向かう条件とはどんなものなのか。

嘗て過酷な環境に適応するために、それまでの躯体を変化させ鈍重で醜いけれど全く新しい躯体を手に入れた彼ら。

いったい私たちが水中から陸上に這い上がるためには何が必要なのか。

そんなことを考えてみたい。そんなことを愚直に実行しなければならない。

 

煙草の煙の向こうに見える風景は、光を帯び始めている。

暗闇の中に光を見い出す。明かりを灯す。そんな日々をまた追ってみようか。

 

  

  

2019.01.02 Wednesday 00:42 | comments(0) | trackbacks(0) | 
 | 1 / 1 PAGES |